熊谷家の歴史
熊谷家は郷宿、代官所の御用達を務め、石見銀山御料で最も有力な商家でした。
石見銀山御料で最も有力な商家
熊谷家は古文書などによると、先祖は毛利家の家臣であったと伝えられ、江戸時代初めから旧銀山町(銀を産出した仙ノ山一帯)に住み銀山附役人(ぎんざんつきやくにん)を務めたとされています。
由緒書などによると享保14年(1729)、旧大森町(現在の大森の町並み一帯)の田儀屋(たぎや)が熊谷家の名跡を継承し、このときに旧大森町に熊谷家が成立したとされています。家業である鉱山業や酒造業とともに代官所に納める年貢銀を秤量・検査する掛屋(かけや)、幕府直轄領である石見銀山御料の支配を担う郷宿(ごうやど・ごうしゅく)、代官所の御用達(ごようたし)を務め、当主は代々大森町町年寄に就くなど石見銀山御料内で最も有力な商家でした。
(作成:島根大学法文学部助教授 小林准士氏)
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年代
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事項
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当主
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家業の
変遷 |
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年 号
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西 暦
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正徳2
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1712
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熊谷直住が厚東(ことう)家を相続。銀山附役人熊谷家の名跡はいったん途絶える | ||||
正徳5
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1715
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御陣屋台所肝煎人(ごじんやだいどころきもいにん)として田儀屋(たぎや)三左衛門の名前が見える |
三左衛門
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享保3
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1718
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田儀屋三左衛門が掛屋(かけや)に任じられる |
掛
屋 |
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享保4
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1719
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稲用村小兵衛の子田儀屋三左衛門の弟・出雲屋六左衛門が処罰される | ||||
享保14
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1729
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田儀屋が熊谷家の名跡を継承し、高橋から熊谷に改姓する。このとき銀山師となる |
未詳
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延享4
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1747
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代官役所内での年貢銀の掛け改めを命じられる | ||||
宝暦3
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1753
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久利組(くりぐみ)・津茂(つも)五ヶ所の郷宿(ごうやど・ごうしゅく)に指定される |
清六
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郷
宿 |
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安永5
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1776
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御用達(ごようたし)を命じられる |
起右衛門か 民右衛門
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御
用 達 |
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天明6
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1786
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12月、掛屋の解任を求めた訴訟(出入り)が起こる |
民右衛門 (直忠)
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寛政1
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1789
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10月、盛込千木(もりこみちぎり)一件が起こる。久利組郷宿は大田屋庄兵衛となり、掛屋は郷宿が兼任することに。御用達は田村屋市兵衛、その後美濃屋作右衛門となる | ||||
寛政3
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1791
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7月、盛込千木一件落着。久利組の郷宿に田儀屋は復帰 |
郷
宿 |
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寛政5
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1793
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1月、掛屋出入りが終わる。再び田儀屋が掛屋を1人で務めることになる 6月、御用達を田儀屋が再び務める |
掛
屋 |
御
用 達 |
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寛政12
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1800
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大森町大火事。熊谷家焼失 | ||||
文化3
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1806
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代官上野四郎三郎の不正事件が起こる | ||||
文化4
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1807
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熊屋柳吉(民右衛門と同居、別株(べつかぶ))が御用達を相続 | ||||
文化5
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1808
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民右衛門が上野四郎三郎一件吟味中、江戸で死去 | ||||
愛蔵が田儀屋を相続 |
愛蔵→
三左衛門 (直行) |
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文化7
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1810
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5月、上野四郎三郎一件落着 9月、一部の村々から掛屋・御用達解任を求める訴願が出される |
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文化9
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1812
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4月、掛屋・御用達解任を求めた村々による訴願は取り下げとなる | ||||
文政4
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1821
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掛屋・御用達・町役(まちやく)・今市原村庄屋役の精勤を理由に代官より表彰される | ||||
文政6
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1823
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1月、熊谷三九郎が田儀屋清六と名を改め、久利組・津茂五ヶ所の郷宿株を継承する | ||||
5月、三左衛門(直行)死去。太作が家督(銀山師も含む)を継承 |
太作→
三左衛門 (信英) |
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安政5
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1858
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4月、三左衛門(信英)死去 | ||||
10月、熊谷旦二が銀山真名鶴(まなつる)山(間歩)を経営する |
三左衛門 (信孚)
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万延1
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1860
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6月、熊谷旦二が銀山師となる | ||||
慶応2
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1866
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長州藩により石見銀山料が占領される | ||||
明治1
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1868
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明治維新、江戸幕府が倒れる | ||||
明治5
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1872
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熊谷家が郵便局を開設 |
19589